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2017年6月25日 (日)

全国布教大会(東京大会)

地元の町内のお寺さん(中学時代の先輩)が上京されるということで、
お聴聞させていただきました。

①武山晃隆 師 広島県専正寺
「まかせよ すくう 親じゃもの」とお取次ぎを頂きました。

ご讃題に、
『煩悩具足と信知して  本願力に乗ずれば
 すなはち穢身すてはてて  法性常楽証せしむ』

南無の2文字はそのままこいよ、(まかせてくれよ)
阿弥陀の文字は必ず救う。佛の2文字は親じゃもの。

4つ(生老病死)の苦悩、なぜ生まれるのことが苦なのか?

裸で生まれるが大きな荷物を背負っている。
1つには、生身の体。
例えば、私の顔。この顔になろうと思って生まれてきたわけではない。
出来るんであったら、もうちょっと男前に、シュッとした人に・・・。
1つには、いつどのような時代に生まれるか。
私の生まれたのは広島ですが、右も左も山しか見えない山の中。
冬には40,50cmと雪の降る山の中。
できれば、赤い提灯のぶら下がったお店の近いところに・・・。
また、生まれたところが、お寺だった。
どんな境遇であっても、自分が選んだものではない。
あてがわれたものである。

生死の苦諦について、無量寿経には、
一人生まれ一人死していく、独生独死、独去独来・・・・たった一人である。
往生要集には、地獄の様子が描かれていますが、
地獄というは我いま来するところなくして孤独にして
一人と言うのは地獄ですよ。と示されています。
誰も変わってはくれない。

生きると読むと、どういう生き方をしているかと言うと「愛憎違順」であります。
正信偈にも、「貧愛瞋憎之雲霧」。人間のしておることは、ほとんどはこれだそうです。
好きか嫌いか、損か得か、良いか悪いか。

「還来生死輪転家」
輪転というのは輪でありますが、同じところをぐるりぐるり。
輪と言うのは、始めも無ければ終わりもない。永遠という事です。
この輪から一歩も出ることない。これが迷いです。

八代亜紀さんも歌っておいでなんですよ。
醜い恋しい 醜い恋しい
めぐりめぐって 今は恋しい
 ↑めぐり巡っている=輪になっています。
雨々ふれふれもっとふれ
私のいい人つれて来い
 ↑自分さえ良ければという事=愚痴ですね。
  自分さえよければ=無明であります。

正信偈の和讃には、「三途の黒闇…」と出てまいりますが、闇であります。
闇は、闇がどれだけ頑張っても、自ら力では、闇を破ることはできません。
光に遇いさいすれば、例え100年の闇であろうと1000年の闇であろうと、それは瞬時に破れる。
それと同じように、私たちも私の力をいくら励んで積んでも、不完全な私の闇は深まるばかり。
如来さまの、み光にであってこそ貪・瞋・痴の煩悩に「清浄歓喜智慧光 」に転じ変えなす働きなんですね。
限りなき光となって、私の闇を破る。あなたを救って見せるぞ。

そして、孤独と申しましたが、生死苦諦は孤独だ。
孤独のように氷のように冷たく固い心。氷に力を加えても砕け散るだけであります。
氷を融かそうと思えば、どうすればええか?
それは、ぬくもりで包み込む。温めると氷は自ずと解けてまいります。

この私は、孤独をみそなわして、阿弥陀様は、あなたは一人ではないよ。
そなたをつつむ親がここにおるから、大丈夫だよ。まかせてくれよ。安心しておくれ。

この様に、丁寧にお取次ぎをしていただきました。(1/3程をご紹介させていただきました。)
私も今後自坊に戻る予定ですが、その際には、よろしくお願いいたします。

2017_0620

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