中央仏教学院通信教育同窓会関東支部のH26年度、総会・講演会・懇親会の開催され 出席してきました。(築地本願寺 第二伝道会館・瑞宝にて、12:30~17:30懇親会含む)
築地本願寺の本堂に寄ると、丁度「仏前結婚式」の準備が行われていました。 準備を横目に聞法ホールに移動し、午前中10:30~の常例布教をお聴聞させて頂きました。 10/12(日)は、米田順昭氏(最禅寺 広島)の先生でした。 午前の法座では、「無言の行」について触れられた一節を紹介いたします。
ある時、四人の僧が一本の蝋燭(略字を使用)を置いて、無言の行を始めました。 無言の行とは、行の最中は、口から声を出してはならない、話しをしてはいけない行です。 行を開始してから、気を散らさずに黙っていましたが、油を使いはたし間もなく蝋燭(略字を使用)の炎が 消えてしまう状況になりました。その時、
「あっ、火が消える!」思わず、一人の僧がと言ってしまいました。 すると、もう一人の僧が、 「こら、今は しゃべってはいけないのだぞ」と注意しました。 そして、別の僧が、 「『しゃべるな』 といいながら、そう言うお前がしゃべっているではないか!」と、 やはり、しゃべってしまいました。 これで、三人とも無言の行は失格です。 そこで、ずっと黙っていた最後の一人(長老)が、 「結局、しゃべらなかったのは、私だけだ」と言いました。
この話の中で、一番「危ない」立場にいるのは誰でしょうか? 一般的な考えでは、四人全員危ない(決まりを守れていない)となるでしょうが、 最後に言葉を発した長老です。
最初の三人は、指摘された事で自分の過ちを気付かせていただいていますが、最後の長 老は指摘する者がおりません。長老自らが過ちを気付けることはできるでしょうか?
現在の世の中は、様々な情報と学びから多くの理論や知識を得られていますが、その結 果、自分以外(他人)を責めているだけになっていないでしょうか? 一歩間違えば自分が当事者になっていたかも。または、そうなる可能性を持っている自分がいるこ と、我執に縛られている自分に気付けないで日々を過ごしているのではないでしょうか?
余談ですが、「油断」という言葉がここから来ていることを知りました。
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