仏に成るということ
十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる とー
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
今日は、仏に成るということをお話します。
先ほど紹介したご和讃は、親鸞聖人が書かれた浄土和讃です。
十方すべての世界の生きとし生けるものをご覧になり、どんなことがあっても救い取って見捨てることはない、その仏の働きを「阿弥陀」と名付けられたのだ、とお聞かせいただいています。
私には阿弥陀さんに、気が付かされた出遭いがあります。
私は小さい頃から父に、車のレースやイベントに連れて行ってもらっていたため、
社会人になると、自分の車でサーキットを走ってみたくなりました。
でも周りの人たちが、時速300キロ以上でクラッシュしているのを見て、死んでしまうかもと、躊躇していました。
そんな時、サーキット走行を楽しんでいる友人に相談したんです。「私もサーキット走ってみたいけど死ぬのが怖い」って。
すると彼は、「何かしてもしなくても、死ぬときゃ死ぬじゃろ?」って言ったんです。
雷に打たれたような衝撃を受けました。そうだ、どっちにしろ私、死ぬんだった。
その瞬間から、不思議と死ぬのが怖くなくなったんです。自分じゃどうしょうもないって気が付かされたから。
後になって知ったのは、相談した友人が浄土真宗のお寺の長男だってこと。
仏教では、この世は苦であると説いています。生老病死。どうにもならないことばかり。
十方微塵世界のこの宇宙、この星の、この時代に、この国の
このお父さんと、このお母さんの元に生まれることは、自分じゃ選べなかったように、自分の命だと思い込んでいるものは自分のものじゃない。思い通りに何てならないし、自分が亡くなって悲しむのは自分じゃない。周りの皆です。
きっと死ぬ時も、行き先は選べない。
だけど、阿弥陀さんが、必ずみんな、仏にするって決めたなら、お任せするしかないって思うんです。
お寺に参られた方に言われました。「わしの葬儀は、あんたに任した。」
一つの出遭いがきっかけで、願いが起こる。阿弥陀さんも、きっと大切な出会いがあった。その方を救おうと思ったら全ての命が繋がっている事に気が付いた。遠くの誰かが悲しんでいるのを知って、私の心が痛むのは、命が繋がっている証拠。
この宇宙の全てを救おうと思ったら、人の寿命じゃ到底足りない。
仏の限りない寿命でなければ助けられないって気が付かれたのではないでしょうか。
そして阿弥陀の名前となった。
親鸞聖人が浄土和讃で、念仏する衆生ではなく『念仏の衆生』と表されたのは、南無阿弥陀仏と声に出すことが救いではないからです。
たとえ声が出せなくても、耳が聞こえなくても、目が見えなくても、無意識でも、夢の中でも
心の声が言葉となって、寝ても覚めても摂取して、決して私を離さぬように。
言葉から離れられない私と分かっているからなんです。
本日は、お聴聞くださり、ありがとうございました。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏


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